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「イブの時間」は、人間とアンドロイドの交流を描いたSF映画だ。
「人間」vs 「アンドロイド」。この構図はSF映画でよく用いられるモチーフであり、構図自体は、「人間」vs「野獣」、「人間」vs「怪獣」、「人間」vs「異星人」でもいい。つまり、この場合「人間」=自分自身であり、対峙する「異形の存在」は、「自分とは異なる存在」= 「他者」を形容する。そして、異形の存在と交流を深めていくことで、お互いの間に信頼関係を構築し、姿形は違えども心はわかりあえるという構成をとる。
映画「イブの時間」のすごさは、「人間」vs「異形の者」という構造を逆転させたことにある。
劇中では、頭上に回転する「リング」以外は外見が人間とそっくりなアンドロイドが登場する。アンドロイドは、道具として人間に使役されており、当然のことながらときおり非人道的な扱いも受ける。
ここで、例えば通常のハリウッド映画ならば、「我々にも自由を」という号令の元にアンドロイド達が隆起し、ウィルスミスが「はやくマザーコンピュータを壊さなきゃ」的な展開になるところであるが。
主人公の向坂リクオは、ある日自分の家にいるアンドロイドが自分に秘密でどこかへ出かけていることを、行動ログから知る。その場所とは、喫茶店「イヴの時間」。その喫茶店内では、人間とアンドロイドの唯一の外見的区別である「リング」が消え、普段機械的であるアンドロイドの話し方が人間らしいものへと変わる。
その喫茶店の唯一のルールは、「人間とロボットを区別しないこと」で、喫茶店に訪れた客は、人間とアンドロイドの区別がつかなくなる。
リクオは当惑し、誰が人間で誰がアンドロイドか疑心暗鬼になるが、次第に喫茶店の常連客と打ち解けていく。
当惑するリクオの心情は観客達にも伝わり、やがてこの「他者の異形性は外面的なものではなく、内面的なものである」という構造こそがが現実的であることを知る。我々にとって他者とはアンドロイドと同様の存在であり、姿形が似ていても、その内面を完全に知ることはできない。実際の社会で、人間の中にアンドロイドが紛れこんでいたとしても、姿形や話し方が自分と変わらないのならばそれをアンドロイドであると認識することはできないだろう。
本作は、姿形、話し方が人間とそっくりではあるが「人間ではない存在」であることが既知であるアンドロイドという存在を登場させることで、他者との信頼関係をいかに構築すべきかと問う。
そして、我々にとって他者とは究極的には理解不可能な存在であるが、それを前提として相手を信頼していく他はないという、一つの答えを提示する。
映画「イブの時間」 トレイラー
好きな男のために全身整形をするカンナさんのおはなし。
整形することにより確かに幸せになれることもあるのだが、整形したからといって幸せになれるわけではないというもっともなストーリーが展開される。
自己、あるいは自らの思い出により構築される自我は、自分の顔とともに他者とのコミニュケーションを経て、形成される。
したがって、自分の顔を捨てるということはこれまでの自分を捨てることに等しく、整形する者が整形することによりつきつけられる問題は、他者からの偏見や中傷ではなく、自分自身の否定によるアイデンティティ・クライシスだ。
いいかえれば、過去の自分がもはや承認されえなくなるという引き金を引いたのが、他でもない自分自身であるという矛盾が、カンナさんを苦しめる。
実際に劇中のカンナさんは、最終的に、過去の自分の象徴である痴呆症の父を受け入れることで、アイデンティティ・クライシスを回避し、自我を保つことを選択する。
私達にとって、たとえそれがどんなに嫌な記憶であったとしても、過去の自分から逃れることは至難の業であり、逃れなくてもよいという解決策もありうるのだとうことをこの映画は提示している。
ところで、サンジュン役のチュ・ジンモはキムタクそっくりだと思うのは私だけだろうか。
ひょっとして、整形しているのでは。まあ、こんな顔になれるなら、整形したいね。
主演のキム・アンジュンとチュ・ジンモ