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とくに、産業構造が製造業からサービス業主体へ変化している現代においては、多くの企業で経費の大部分は人権費で構成される、つまり固定比率は高い状況にあるだろう。
このような状況下では、以下の2つの戦略が有効である。
①とにかく売上をあげる。だって、経費は一定だから。
②価格設定を見直す。
②が重要である理由は、次の単純な例をあげて考えるとわかりやすい。
原価900円のサービスを1000円で販売するとする。利益はもちろん100円だ。
でも、このサービスが実は1,100円で販売できるとしたらどうだろう。利益は200円となり経常利益は2倍になる!
サービス業の場合、けっこう値段をいい加減に決めている場合もあるので、ライバル企業や自社の優位性を徹底的に検証し、適切な価格を見極めることが重要だ。そしてとにかく安ければいい、という素朴な意見に終始することだけはやめるようにしたい。
人を傷つけて、後悔して、それでもいいやなんて思っていたが・・・。
clammbon ”バイタルサイン、NOW!!!”
そして、youtubeのコメントをみるとほんとどうしようもないという絶望に襲われる。防衛する自意識しかそこには存在せず、自省がない。ゆえに、自意識を否定されると過剰に脊髄反応するしかないというどうしようもなさ。
このままじゃ、ダメだと思うんだけどなあ。
「イブの時間」は、人間とアンドロイドの交流を描いたSF映画だ。
「人間」vs 「アンドロイド」。この構図はSF映画でよく用いられるモチーフであり、構図自体は、「人間」vs「野獣」、「人間」vs「怪獣」、「人間」vs「異星人」でもいい。つまり、この場合「人間」=自分自身であり、対峙する「異形の存在」は、「自分とは異なる存在」= 「他者」を形容する。そして、異形の存在と交流を深めていくことで、お互いの間に信頼関係を構築し、姿形は違えども心はわかりあえるという構成をとる。
映画「イブの時間」のすごさは、「人間」vs「異形の者」という構造を逆転させたことにある。
劇中では、頭上に回転する「リング」以外は外見が人間とそっくりなアンドロイドが登場する。アンドロイドは、道具として人間に使役されており、当然のことながらときおり非人道的な扱いも受ける。
ここで、例えば通常のハリウッド映画ならば、「我々にも自由を」という号令の元にアンドロイド達が隆起し、ウィルスミスが「はやくマザーコンピュータを壊さなきゃ」的な展開になるところであるが。
主人公の向坂リクオは、ある日自分の家にいるアンドロイドが自分に秘密でどこかへ出かけていることを、行動ログから知る。その場所とは、喫茶店「イヴの時間」。その喫茶店内では、人間とアンドロイドの唯一の外見的区別である「リング」が消え、普段機械的であるアンドロイドの話し方が人間らしいものへと変わる。
その喫茶店の唯一のルールは、「人間とロボットを区別しないこと」で、喫茶店に訪れた客は、人間とアンドロイドの区別がつかなくなる。
リクオは当惑し、誰が人間で誰がアンドロイドか疑心暗鬼になるが、次第に喫茶店の常連客と打ち解けていく。
当惑するリクオの心情は観客達にも伝わり、やがてこの「他者の異形性は外面的なものではなく、内面的なものである」という構造こそがが現実的であることを知る。我々にとって他者とはアンドロイドと同様の存在であり、姿形が似ていても、その内面を完全に知ることはできない。実際の社会で、人間の中にアンドロイドが紛れこんでいたとしても、姿形や話し方が自分と変わらないのならばそれをアンドロイドであると認識することはできないだろう。
本作は、姿形、話し方が人間とそっくりではあるが「人間ではない存在」であることが既知であるアンドロイドという存在を登場させることで、他者との信頼関係をいかに構築すべきかと問う。
そして、我々にとって他者とは究極的には理解不可能な存在であるが、それを前提として相手を信頼していく他はないという、一つの答えを提示する。
映画「イブの時間」 トレイラー